最新のお知らせ

2024年3月23日(土)15:00から柳田館で通常例会「おさま甚句はどこからはよた♪三州振草下田の盆踊り」(宮下英治会員)を行います。

2019年6月11日火曜日

【報告】飯田市上郷飯沼を探訪しました

 本年度からの「飯田市上郷飯沼の民俗調査」に向け、研究所の探訪会を兼ねて同地区の史跡などを見学する探訪会を2019年5月27日に実施しました。15名が参加しました。

 案内役は、上郷史學会長の中島正韶(まさあき)氏と、飯沼在住の郷土史家である岡田正彦氏です(ともに研究所会員)。飯沼諏訪神社を皮切りに、鶏足院、北条薬師堂、筒井捺染工場、田薗神社、リニア駅建設予定地、恒川遺跡(座光寺)、高岡古墳(同)、田中八幡宮、雲彩寺と天神塚古墳を巡りました。

御柱祭なども行われる飯沼諏訪神社
 飯沼諏訪神社では、社殿裏の土塁や空堀など、飯沼城の痕跡を見学。
かつて上郷村の役場が置かれた鶏足院

数少なくなった染物工場(筒井捺染工場)
 リニア駅建設にともなう移転対象地となっている筒井捺染工場では、貴重な型染の工程を見学。社長の筒井克政さんが娘さんとともに江戸小紋染の工程を案内し、技術や道具も含めて存続の危機にある現状を淡々と説明してくれました。参加した國學院大學の学生たちは、完成した染物の繊細な美しさに驚いた様子でした。

恒川清水(座光寺)
 昼食後は、郡衙跡であることが有力視されている恒川遺跡を見学。
高岡古墳石室(座光寺)

田中八幡宮の池
 田中八幡宮では、鎌倉権五郎景政が怪我をした目を洗ったところ傷が治り、イモリが片目になったという伝説の残る井戸を見学。
鎌倉権五郎の墓と伝わる宝篋印塔(雲彩寺)
 雲彩寺では、権五郎の墓と伝わる宝篋印塔と、馬鈴などが出土したことで有名な飯沼天神塚古墳を見学。
天神塚古墳の後円部(雲彩寺)

 探訪後は柳田館で調査ミーティングを行い、今後のスケジュールや各自の担当テーマなどを確認しました。

2019年6月10日月曜日

【報告】2019年度総会研究発表

2019年度総会の研究発表では、2名の会員が研究発表を行いました。

片桐みどり会員「子供の行事 天神様」

【要旨】
天神様の祭りは、飯田・上飯田ではほとんど誰も知らないが、周辺部では2月25日を中心に多くの地域で行われていた。私の住む飯田市松尾久井では、PTAの行事として現在も1月に行っている。子どもたちが天神様にお参りした後、賽銭箱を持って地区内を回る。寒くて大変だろうと思うが、「歌を歌って面白かった」「お賽銭をもらえてうれしかった」と肯定的な感想が聞かれた。
片桐会員


 こうした行事は戦前は高等科の生徒たちを中心に行われていたが、戦争前後に多くが途絶えた。残った地区でも、新学制により中学生が参加しなくなると、大人たちが計画実行を担うようになった。

今井啓会員「柴刈りと洗濯の民俗」

【要旨】
 飯田下伊那のシバカリは、肥料として水田に敷き込むカリシキ(刈敷)が重要だった。カリシキと同じ意味でタタカリ(叩刈)という語もあるが、県内では下伊那が中心であり、県外では飛騨地方や岩国地方など分布が限られているとみられ興味深い。カリシキにはクヌギの若葉がよいとされ、高森町には毎年枝を刈られた「カリシキの木」が現存する。

高森町牛牧の「カリシキの木」(クヌギ)

 一方、飯田下伊那に洗濯機が普及したのは昭和30年代からで、それ以前の貧しい時代は洗剤替わりに豆腐の搾り汁を使ったり、疎開家庭が使った後の石鹸水をもらったりと、さまざまな苦労があった。洗濯は家事の中で優先順位が低く、嫁は自由に洗濯することもできなかったと向山雅重が書いている。
 山のシバも洗濯の汚水も、最後は田畑の肥料となった。坪井洋文はカリシキに山の霊力を移入する信仰的意味を見出そうとしたが、だとすれば田畑は聖なるものも穢れたものも区別なく受け入れて豊穣に変える場所だったといえる。

(文責:今井啓)

2019年6月9日日曜日

【報告】研究所総会および記念講演会

2019年5月26日(日)、飯田市美術博物館講堂にて当研究所の総会および総会記念講演会、会員による研究発表が行われました。

 2019年度総会には20人が出席し、議案はすべて承認されました。
 本年度の主な事業予定はこちらをご覧ください。→年間予定

総会記念講演会
小澤俊夫 筑波大名誉教授(小澤昔ばなし研究所所長)
「柳田國男と昔話研究」

【講演要旨】
 ぼくは東北大大学院の修士論文でグリム童話の成立史を調べていた25歳のとき、『ドイツ民俗学雑誌』を読みたくて成城の柳田先生の研究所(移築前の柳田國男館)を訪ねました。夕方4時半頃、ドアを叩くと和服姿で小柄な先生ご本人(当時82歳)が出てきて、目の前が真っ白になりました。鋭い目で「何の用か」「紹介はあるのか」と聞かれ、「まあ入りたまえ」と招き入れてくれました。廊下が普通の家よりも広かったことが印象的でした。

小澤俊夫氏

 広い板の間には机が4~5台あって、男の人たちが4~5人勉強していたと思います。先生は「こっちだ」と左の方の棚を教えてくださって、自分の机に戻っていかれました。
 ぼくは目的の雑誌を写したり読んだりして、一時間ほどして帰ろうとしたした頃には先生の他に誰もいなくなっていました。先生にお礼を言うと、「君、何を調べているのか」。「グリム童話の成立史を調べております」と答えると、「そこへかけたまえ」と言われて一対一で座っちゃったんです。先生がいろいろ質問なさるので、ぼくはうれしくなって、勉強したてのことを一生懸命しゃべると、先生は「ちょっと待て」と文机から小さな手帳を持ってきて、ぼくがしゃべることをメモし始めたんです。初対面の若造が言うことなのに、知らないことは全部メモするんだ、学者ってこういうものなんだと思いました。
 別れ際、「君、グリム童話をやるなら日本の昔話もやってくれたまえ」と言われてびっくりしました。「くれたまえ」って、先生のためにやってるんじゃねえやと思ったけれど、衝撃的でした。その日はそのあと何をしたか覚えていません。ぼくが日本の昔話も研究するようになったのはそれからです。

 日本の昔話も、長いもの(本格昔話)の多くは全世界に類話があります。それらはおそらくどこかに源があり、人類の移動や交流によって広がったでしょうが、それを解明するのはとても難しい。
 柳田先生は『日本昔話名彙』(1948)で、日本の昔話を2分類し、奇跡的な誕生をした神の子が成長して英雄的行為を成し遂げる「完形昔話」と、そこから派生した「派生昔話」の二つを想定しましたが、一方では日本のものだけで研究するのは危険だと気付いていたと思います。
 柳田先生の弟子でぼくも親しくさせていただいた関敬吾先生が『日本昔話集成』(1950)を出してからは、日本でも国際的なAT(アールネ・トンプソン分類)による3分類(本格昔話、動物昔話、笑話・逸話)が定着しました。これは2015年にATU(アールネ・トンプソン・ウター分類)として改訂されています。

 戦後、日本の昔話が「好戦的だ」「文芸的価値が低い」と批判されていたことを柳田先生はとても心配していたと思います。だからぼくに期待をかけてくれたのでしょう。
 とくに松谷みよ子さんが「竜の子太郎」で大成功したせいで、「昔話はああいう立派な文学にしなければいけないんだ」という認識が広まって今でも続いています。ぼくはそれに抵抗しているんです。
 昔話は読まれてきたものではなく、耳で聞かれてきたもの。ぼくはマックス・リュティの論文「ヨーロッパの昔話―その形と本質―」に出会い、衝撃を受けてさっそく翻訳しました。この論文は柳田先生が『名彙』の序文を書いたのと同じ1947年に出されたもので、「昔話は同じ場面は同じ言葉で語る」「同じ場面を3回繰り返す」「極端かつ平面的に表現する」といった革命的な文芸論です。ぼくがフィールドワークしてきた実感とも一致するものでした。ぼくはいま、彼の理論に従って昔話をシンプルな言葉でリライトする「再話」を全国40数カ所の昔ばなし大学の皆さんと取り組んでいます。

 昔話は人間の一番基本的なところから生まれたものです。生の語りを聞くことで、子どもたちは「自分は愛されている」「信頼されている」という実感を持ちます。子どもたちの、みずから「こうありたい」と願う姿に成長する力―ドイツ哲学でいうところの「形式意志」―を、大人は信じてやるべきではないでしょうか。
 昨日と今日、再話した全国の昔話を語る会を柳田館で開いたのは、柳田先生の期待に応えるためです。まるで先生があの書斎にいるように感じました。飯田でこうした話をできることをとてもうれしく思います。(文責:今井啓)

柳田館で(5月25日)