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2024年5月26日(日)に2024年度の総会と記念講演会および研究発表会を美博講堂で行います。

2020年8月16日日曜日

【報告】2020年7月例会

2020年7月25日に柳田館で開かれた例会には12人が参加しました。 

 発表要旨

 今井啓会員「おまん様の誕生―下伊那最古の疫神送り―」  

 天龍村向方には、「おまん様」もしくは「関の方(せきのかた)」と呼ばれる人形を村境まで送り出す疫神送り行事があった。伝説によればおまん様は滅ぼされた豪族関氏の奥方で、幼い息子長五郎を連れて和知野城から落ち延びる途中、息子とともに大河内で殺されたという。
 『熊谷家伝記』にも、「お万どの」母子の祟りを鎮めるために関氏滅亡の翌年(1555)から「二月の神送り」を始めたと記されており、これが飯田下伊那における事八日の神送りの最古の記録とされている。
  しかし愛知県新城市や犬山市には「オカタ送り」「セキノカタ送り」などと呼ばれる類似の行事がある。また大鹿村や静岡県磐田市には「咳気」すなわち風邪の神を送る「ゲーキの神送り」「ガキ送り」がある。
  よって、天龍村の「セキノカタ」も本来は「咳のカタ(形代)」の意味であり、家伝記の記述を史実として受け止めることはできない。むしろ神送りが伝説よりも先にあり、文字記録と口頭伝承が相互に影響し合って「咳の形」→「関の方」→「関のお万」として伝説化されていったのではないだろうか。
 ムラからムラへと追いやられ、最後は国境で殺される母子の姿は、神送りの人形そのままである。

岡田正彦会員「飯沼の歴史―原始から中世へ―」(調査部会報告)

 飯田市上郷飯沼一帯は古くからの沼沢地であり、丹保地区はソブ(赤い水)が湧くムラである。丹保遺跡からは弥生時代後期の住居址や方形周溝墓が見つかっており、近くの別府地区などには多くの古墳が分布して飯田下伊那の馬匹文化の中心の一つだった。
 飯沼に隣接する飯田市座光寺には伊那郡衙があったが、丹保の堂垣外遺跡からも墨書土器が出土しており、関係が想像される。
 飯沼郷の名が初見されるのは鎌倉時代の守矢文書で、戦国時代には知久氏が飯沼郷を支配していたことが同文書からうかがえる。
 飯沼城は武田信玄によって落城したのち、神社が建立されて現在に至っている。中世の飯沼郷は飯沼・南条・黒田を含み、諏訪神社の祭りも郷を挙げて行っていた。こうした歴史をふまえ、近年は飯沼諏訪神社の御柱祭を上郷地区全体でやれないだろうかという声も上がっている。
 飯沼の民俗調査報告書では、こうした歴史をいかに民俗と結びつけながら記述するかが課題だと感じている。